病気が教えてくれたこと

私は強迫性障害という病気を患っている。強迫性障害には様々な症状があるが、不潔に感じて一日中手を洗うのが止められなかったり、戸締まりやガスの元栓が気になって家から外出ができなくなったりする症状などがある。ばかばかしい、大丈夫だと思っていても頭の中で不安や恐怖がわき上がって止まらないのだ。


私が発症したのは一年ほど前のある日突然だった。いつも通り何気なくゴミを捨てたときに何か大事なものを一緒に捨ててしまったのではないかと急に不安になった。一度ゴミ箱の中身を確かめたものの、しばらく経つとまた同じように不安になる。二度、三度と繰り返してもその不安は取り除かれずとうとうゴミが捨てられなくなってしまった。


そのうちに大事なものを失ってしまうのではという恐怖で紙くずひとつ捨てられなくなり、最後には「もしかしたら自分にとって何か関係のある重要なものがあるのでは」という強迫観念がひどくなって、道端のゴミや公共のゴミさえ人目をはばからず拾い集め持ち帰るようになってしまった。

 

それからすぐに実家に引き取られ、入院して療養を始めることになった。最初のうちは一日を過ごすことさえ苦しく、ベッドの上で煩悶を繰り返し病気による強迫観念と格闘することだけで精一杯だった。しかしその後薬物治療が効果を見せ始め、少しずつではあるけれども自分自身の病気、強迫観念、なぜこのような病気に至ったかを振り返ることができるようになった。


私には発症以前から、人生における重要な決断を下す際に「もし間違った道を選んだら何か大変なことが起こるのでは」という強迫的な思考がもともとあり、そのような局面を前にすると機能不全に陥ってしまうことがあった。そのためにいつまでも進路を決定することができず、ずるずると無駄な時間を過ごしてしまっていた。そしてちょうどその頃に、父ががんを患いあっという間に亡くなってしまうということが重なった。その時には自分はこれまで迷ったり悩んだりするだけで何もしてこなかった、父親にも何もしてあげられなかったという苦しい思いが続いた。


今思うとその頃からもう私の頭の中では「何か大事なものを失ってしまうかも」、「重要な機会を逃してしまうかも」という考えでいっぱいだったのかもしれない。「大事なものを捨ててしまうのではないか」という強迫的な考えからゴミを捨てられなくなったのも、もしかしたらこうしたことからつながっているのではないかと考えている。


しかし実際には当然、そのような「大事なもの」「重要な機会」というのは家の中のゴミにも、道端のゴミ箱にも転がっているものではない。間違って捨ててしまうことなどありえないのだ。それにも関わらずゴミを捨てる恐怖を拭い去りきれないのは、もちろん脳の神経伝達物質の不調もあるのだろうが、やはりその「何か大事なものがあるかも」という思いを捨てきれず、そこに救いのようなものを求めてしまう自分の心の弱さにあるのだと思う。


この病気になって初めてそうした自分のこれまでの生き方や自分の弱さというものに向き合い、真剣に考えることができるようになった。病気の症状はまだ続いているものの、それを完全に克服できるようになるのは自分の人生を決断し、何かをやり遂げたのだという自尊心を回復できたときなのだと思う。


私は少し前からある作業を通じた長い挑戦を始めた。自分がそれを成し遂げたとき、「今まで重要な機会を失い続けてきた」という強いコンプレックスを打ち払い、「何か大事なものを失うのではないか」という自分の心の弱さを教えてくれたこの病気に打ち勝つことができる、そう信じている。