ネットで見つけた記事
http://www.narinari.com/Nd/20100513631.html
この間ネットで見つけた記事です。
私もほぼ同じような状況でした…
最近
最近一つステージをジャンプアップできた気がします。
強迫性障害の治療の本で今まで見聞きはしてきたけれど、今になってようやく体得できたことが三つあるからです。
+前進できなくてもそれは仕方がない、でも後退だけはしてはいけない。現状の生活レベルはなんとか保てるようにする。
+病気以前の自分の生活、もしくは健常な他の人の生活を参考にして、なるべくそれと同じ振る舞いを心がける。
+「確認行為、安全保障行動を行ったから大丈夫」ではなく、「元々そんなことはあり得ないのだから大丈夫」という思考を導く。
以上の三点です。
この中でも特に最初の一点が重要で、「強い向かい風が吹き荒れて、その場に立っていられるのもやっとという状況でも、今立っているその位置からは絶対に後ろに下がらない。」という決意が大事です。
自分もそうですが、強迫性障害に苦しめられている人には、「それは分かっているんだけどやっぱりできない」と思われるでしょう。でも歯を食いしばって、歯茎から血がにじみ出るほど歯を食いしばってその恐怖に耐えると、苦しい山を登り超えたあとにそれまでの苦しい道が眼下に広がる美しい景色に変わるように、広々として苦しみから解放された世界が広がっています。約束します。
ただ、その最初の一歩だけは他でもない自分の力でしか踏み出すことが出来ないのです。お互いにがんばりましょう。
今までありがとうパキシル、そしてさよなら。
減薬を開始して、とうとうゼロになった。調子は悪くないし、気づかないだけで飲んでるうちに副作用があったのか、減薬してから発想力思考力集中力ともに上がってきた。気のせいか知らないけど、病気以前に比べても上がっているような気までする。あとは、いつでも自分を強く保ちいかにセルフコントロールしていくかだ。
結果としては高校時代からの自分の中の違和感に対する答えが見つかったし、病気に教えられたこともたくさんあってよかったと思えるようになった。 「自分にとって本当に大切なものは何なのか」に気づくためのイニシエーションだったのかもしれない。成人するにしては相当年齢がいってしまったが。
しかし思い返してみて、この薬がなければきっと今ぼくはもうこの世にいなかったと思う。本当に医学と薬学の力は偉大だ。医者がモテるというのも納得である。
そんなことを思いながらちょっと今感傷的になっている。
今までありがとうパキシル、そしてさよなら。
病気が教えてくれたこと
私は強迫性障害という病気を患っている。強迫性障害には様々な症状があるが、不潔に感じて一日中手を洗うのが止められなかったり、戸締まりやガスの元栓が気になって家から外出ができなくなったりする症状などがある。ばかばかしい、大丈夫だと思っていても頭の中で不安や恐怖がわき上がって止まらないのだ。
私が発症したのは一年ほど前のある日突然だった。いつも通り何気なくゴミを捨てたときに何か大事なものを一緒に捨ててしまったのではないかと急に不安になった。一度ゴミ箱の中身を確かめたものの、しばらく経つとまた同じように不安になる。二度、三度と繰り返してもその不安は取り除かれずとうとうゴミが捨てられなくなってしまった。
そのうちに大事なものを失ってしまうのではという恐怖で紙くずひとつ捨てられなくなり、最後には「もしかしたら自分にとって何か関係のある重要なものがあるのでは」という強迫観念がひどくなって、道端のゴミや公共のゴミさえ人目をはばからず拾い集め持ち帰るようになってしまった。
それからすぐに実家に引き取られ、入院して療養を始めることになった。最初のうちは一日を過ごすことさえ苦しく、ベッドの上で煩悶を繰り返し病気による強迫観念と格闘することだけで精一杯だった。しかしその後薬物治療が効果を見せ始め、少しずつではあるけれども自分自身の病気、強迫観念、なぜこのような病気に至ったかを振り返ることができるようになった。
私には発症以前から、人生における重要な決断を下す際に「もし間違った道を選んだら何か大変なことが起こるのでは」という強迫的な思考がもともとあり、そのような局面を前にすると機能不全に陥ってしまうことがあった。そのためにいつまでも進路を決定することができず、ずるずると無駄な時間を過ごしてしまっていた。そしてちょうどその頃に、父ががんを患いあっという間に亡くなってしまうということが重なった。その時には自分はこれまで迷ったり悩んだりするだけで何もしてこなかった、父親にも何もしてあげられなかったという苦しい思いが続いた。
今思うとその頃からもう私の頭の中では「何か大事なものを失ってしまうかも」、「重要な機会を逃してしまうかも」という考えでいっぱいだったのかもしれない。「大事なものを捨ててしまうのではないか」という強迫的な考えからゴミを捨てられなくなったのも、もしかしたらこうしたことからつながっているのではないかと考えている。
しかし実際には当然、そのような「大事なもの」「重要な機会」というのは家の中のゴミにも、道端のゴミ箱にも転がっているものではない。間違って捨ててしまうことなどありえないのだ。それにも関わらずゴミを捨てる恐怖を拭い去りきれないのは、もちろん脳の神経伝達物質の不調もあるのだろうが、やはりその「何か大事なものがあるかも」という思いを捨てきれず、そこに救いのようなものを求めてしまう自分の心の弱さにあるのだと思う。
この病気になって初めてそうした自分のこれまでの生き方や自分の弱さというものに向き合い、真剣に考えることができるようになった。病気の症状はまだ続いているものの、それを完全に克服できるようになるのは自分の人生を決断し、何かをやり遂げたのだという自尊心を回復できたときなのだと思う。
私は少し前からある作業を通じた長い挑戦を始めた。自分がそれを成し遂げたとき、「今まで重要な機会を失い続けてきた」という強いコンプレックスを打ち払い、「何か大事なものを失うのではないか」という自分の心の弱さを教えてくれたこの病気に打ち勝つことができる、そう信じている。
ザイン・エドさん
下のアンビリバボーに登場するザイン・エドさんを取材したノンフィクションを
読みましたのでその感想を。
重度の強迫性障害を患い「時間を巻き戻す」という儀式行為と、死へと向かう時間の流れに恐怖を感じる強迫的な考えから逃れられないでいる主人公。献身的な精神科医の治療や家族のサポートに触れて自分にとって一番大切なものは何かを問い直し、強い意志でもってみずから行動療法を進め回復していく姿を描くノンフィクション。
こういう精神的な疾患というのは脳の器質的な問題、もっと脳の「物質」としてのケミカルな部分が作用するものだと自分としては考えているが、心の深い部分にまで根を生やしその患者を支配している囚われた思考に光を当て、それを一度解体して再構成していく営みも絶対的に必要となってくるのかもしれないと感じた。
もちろんそれには自分自身の中の抑圧されている無意識までも掘り下げて、それと真正面から向き合う冷静さとそれを乗り越える強さが伴わなければならないのだが。
こちらの本のライターの方の息子さんも強迫性障害の患者であり、その経験にも根付いた丁寧な取材と優しさを持つ視線によって良質なルポに仕上がっている。